目的と目標
2011年 10月 21日
Fukushima原発震災や、その被害の処理にまつわる様々な問題の優先順位があいまいなまま、まったく定まっていない。まず第一に解決されなければならない諸問題について、あたかもコンセンサスが出来上がり、それが疑い得ないようなものにもうすでになったと日本政府は思っているフシがある。わたしにはそう見える。もっとも、そのコンセンサスは国中が議論し尽くして行き着いた合意にはほど遠く、あくまで「とりあえずはこれでいってみよう」という、まさに菅前首相が涙の辞任会見を開いた小佐古参与から批判された、場当たり主義を象徴する内輪内的合意を指す。放射能被害による人道上の問題が深刻な問題として認識されず、スルー状態に置かれている理由は恐らくここにある。つまり、問題としての自明性・喫緊性が高いから考慮に入るのではなく、問題として選択されたが故に、その問題の自明性・喫緊性が自動的に増すような構造が支配している。
東日本大震災には略式化すると天災期と人災期がある。
Fukushimaは主に後者を指す。天災期には政府の目標ははっきりしていた。まだ救える命を助ける。そしてそのために、あらゆる手段を尽くす。
しかしそうこうしているうちに、救助活動を阻む原子力災害が起こった。既に莫大な東北地方沿岸部の復興費が必要とされるところに、天文学的な補償費を付け足さねばならなくなった。東電の賠償総額が20~30兆円にまで上るらしいと以前わたしはどこかで読んだが、そんなに低く事態が収まるわけがない。政府は焦った。これが、あらゆる手段を動員して人々を救助するという、はっきりした手段と目的の関係が瓦解し始めた転換点ではないかと思う。そして、「人の命が一番大事」というモットーが、「経済あっての人の命」というモットーにすり替わった時点ではなかったか。そんな気がする。手段(経済)が目的(人命救助)の地位を奪ってしまったのである。
目的化された手段は時に自己完結して閉じた世界を作ってしまう。わかりにくい表現で申し訳ないが、つまりこういうことだ。
震災の天災期、つまり人命尊重問題に、問題としての自明性が最大限与えられていた頃、行動の選択肢は山のようにあった。その頃はまだ「手段」という抽象度の高い言葉にそれなりのナカミが与えられていた。史上最大の自衛隊の作戦が行われ、天皇はテレビを通じ国民にメッセージを送る。ボランティアらが続々と被災地に集まる。また「目的」という抽象度の高い言葉にも絶対に揺るぎないひとつの価値(救うことがまだできる命を救う)が肉付けされていた。
ところが、当初の目的から切り離され、自己目的化した手段は、自身の抽象度を失い、自分自身をそのもっとも具体的な低い形で表現し始めた。すなわち、カネであり費用である。
何をするにも金がいる。あらゆる目的完遂には費用が先立つ。実際にそんなイデオロギーが幅をきかせる社会をここ数十年掛けて日本は築き上げてしまった。社会のあらゆる物事を測る尺度がカネという一点に凝縮されると、諸々の具体的な手段そのものが一種の目的に見えてくる。しかしそれは厳密に言えば、個々の手段(目標)であり、目的ではない。
目標には常に「次」があるけれど、目的に「次」はない。目的とは、その言葉の真の意味において、常に最終目的(telos)だからである。
だから目標であれば、それはいくらでもずらすことができる。調整することができる。東京電力が発表している工程表は、時に工程目標とされている。目標とされるのは、詰まるところ、それが達せられようが達せられなかろうが実はあまり重要ではないと告白しているようなものだとわたしは思うが、どうなのだろう。同様に、震災直後の原発がメルトダウンした頃、目的は「ただ冷やす」という真に自明性の高い問題だった。そのためにあらゆる機材が道具(手段)として運び込まれた。それらの機材が有償だったのか無償提供だったのかわたしはよく知らない。
いずれにせよ、メディアの報道が続く中で、私たちの注意は次第に目的から目標へ向くようになっていった。換言すると、目的群から手段群へ向くようになってしまった。上に、手段(経済)が目的(人命)の地位を奪ってしまったと書いたが、その序幕がこの辺りから実は始まっていたのではないか。
これらの手段としての目標群には価値としての重みは実はない。最上位も最下位もない。これが済んだら次。こっちが済めばさらにその次、という風に現段階で達成された目標が、次の段階では手段となって、次の新しい目標へ突き進む。まさに手段と目標が綿々と連なり合う世界。この価値論的に等価的で工程的な事例のニュースが主要メディアでは、時にそれ自体に価値のあることのように流されていた。そのお陰のためかどうか、海外の人たちも、日本国内の人々も多くは福島原発のことはあまり念頭にない生活ができている。ルーティーンがやっと軌道に乗り始めた、やれやれと。
でも、本当に価値のあるもの、つまりそこに人間の判断が関与しているとわかるようなものとは、「手段と目標の関係」の中にではなく、「手段と目的の関係」の中にこそ見出されるものではないのだろうか。日本社会はもうかなり以前から目的を失っている。実は一度も目的を持ち合わせたことが歴史上なかったのかもしれない。目標ばっかりで。日本をそのルーツにもつ人間論なんてあまり聞いたことないし。ミクロ的にはそれらの目的を目的として捉え広めようとした偉人賢人がいたのだろうけれど。
さて、放射性物質が日本全体に降り注いだことで、いろいろと深刻な問題が生じている。だが、それに対処するような大きな目標(手段)設定はなされていない。これだけの事故が起きたけれども、それに見合う対策を講じているという姿勢が少なくとも行政側から提示されていない。社会にとっての理想的なあり方や、ヒトの存在に対する究極目的が、もともと人々の日常会話のレベルであまり話題にならない社会だから、妊婦や子供たちの命をどう守るか、内部被爆や放射能汚染物質の二次汚染をどう防ぐのかなど、視野を広くし見晴しがきく位置に立って始めて見えてくる手段群が軽んじられている。何故手をこまねいているように見えるのか。それは、手段という言葉が「目標」という言葉に絡め取られた結果、みずからの抽象度を堕とし、費用となってしまったからではないか。だとすると、上で申し上げたように、ただ単に経済が人命に優先させるとは言えないのかもしれない。それはあくまで結果論であろう。
経済が人命に優先するのなら、そのような判断をした人間がどこかにいるはずだが、判断することそれ自体をみずからの手によってあらかじめ禁じてしまうような、没目的的な社会のありように究極の原因があるのではないか?そんな気がする。判断をしなくて済むのは目的の内実が目標だったからではないのか。
思えば、人間の究極目的は死とよく言われる。その究極目的を忘却する社会はその名にふさわしい目的を見失いがちなのかもしれない。ハイデガーを直接読んだことがないから分からないが、カントのアプリオリ(先験)も究極の経験であり、それを忘却する社会は、その名にふさわしい経験を積むことが難しいのかもしれない。考えてみると、費用対効果などという表現が社会で使われているけれど、この効果という言葉も、目的という抽象度の高い言葉が自沈し、具体的になった一つの例かもしれない。
21世紀を人間に優しい世紀とするためには、そのような没目的的な社会を改める必要がありそうだ。
そういえば、養老孟子氏はご自分のことを純粋行為主義者だと書いていた。自分のしている行為それ自体が目的であるような行為。そういう行為が屈託なくできる社会をヒトづくり大国と呼んでもいいのかもしれない。モノづくり大国は、やはり駄目ですよね。
# by yoshiboite | 2011-10-21 16:36 | 時事 | Trackback | Comments(0)











































