IE9ピン留め

目的と目標  

2011年 10月 21日

横浜でストロンチウム、東京もあっちこっちの土壌調査でセシウムが検出されている。これから東日本どうなるのだろう。
Fukushima原発震災や、その被害の処理にまつわる様々な問題の優先順位があいまいなまま、まったく定まっていない。まず第一に解決されなければならない諸問題について、あたかもコンセンサスが出来上がり、それが疑い得ないようなものにもうすでになったと日本政府は思っているフシがある。わたしにはそう見える。もっとも、そのコンセンサスは国中が議論し尽くして行き着いた合意にはほど遠く、あくまで「とりあえずはこれでいってみよう」という、まさに菅前首相が涙の辞任会見を開いた小佐古参与から批判された、場当たり主義を象徴する内輪内的合意を指す。放射能被害による人道上の問題が深刻な問題として認識されず、スルー状態に置かれている理由は恐らくここにある。つまり、問題としての自明性・喫緊性が高いから考慮に入るのではなく、問題として選択されたが故に、その問題の自明性・喫緊性が自動的に増すような構造が支配している。

東日本大震災には略式化すると天災期と人災期がある。
Fukushimaは主に後者を指す。天災期には政府の目標ははっきりしていた。まだ救える命を助ける。そしてそのために、あらゆる手段を尽くす。
しかしそうこうしているうちに、救助活動を阻む原子力災害が起こった。既に莫大な東北地方沿岸部の復興費が必要とされるところに、天文学的な補償費を付け足さねばならなくなった。東電の賠償総額が20~30兆円にまで上るらしいと以前わたしはどこかで読んだが、そんなに低く事態が収まるわけがない。政府は焦った。これが、あらゆる手段を動員して人々を救助するという、はっきりした手段と目的の関係が瓦解し始めた転換点ではないかと思う。そして、「人の命が一番大事」というモットーが、「経済あっての人の命」というモットーにすり替わった時点ではなかったか。そんな気がする。手段(経済)が目的(人命救助)の地位を奪ってしまったのである。

目的化された手段は時に自己完結して閉じた世界を作ってしまう。わかりにくい表現で申し訳ないが、つまりこういうことだ。
震災の天災期、つまり人命尊重問題に、問題としての自明性が最大限与えられていた頃、行動の選択肢は山のようにあった。その頃はまだ「手段」という抽象度の高い言葉にそれなりのナカミが与えられていた。史上最大の自衛隊の作戦が行われ、天皇はテレビを通じ国民にメッセージを送る。ボランティアらが続々と被災地に集まる。また「目的」という抽象度の高い言葉にも絶対に揺るぎないひとつの価値(救うことがまだできる命を救う)が肉付けされていた。

ところが、当初の目的から切り離され、自己目的化した手段は、自身の抽象度を失い、自分自身をそのもっとも具体的な低い形で表現し始めた。すなわち、カネであり費用である。

何をするにも金がいる。あらゆる目的完遂には費用が先立つ。実際にそんなイデオロギーが幅をきかせる社会をここ数十年掛けて日本は築き上げてしまった。社会のあらゆる物事を測る尺度がカネという一点に凝縮されると、諸々の具体的な手段そのものが一種の目的に見えてくる。しかしそれは厳密に言えば、個々の手段(目標)であり、目的ではない。

目標には常に「次」があるけれど、目的に「次」はない。目的とは、その言葉の真の意味において、常に最終目的(telos)だからである。
だから目標であれば、それはいくらでもずらすことができる。調整することができる。東京電力が発表している工程表は、時に工程目標とされている。目標とされるのは、詰まるところ、それが達せられようが達せられなかろうが実はあまり重要ではないと告白しているようなものだとわたしは思うが、どうなのだろう。同様に、震災直後の原発がメルトダウンした頃、目的は「ただ冷やす」という真に自明性の高い問題だった。そのためにあらゆる機材が道具(手段)として運び込まれた。それらの機材が有償だったのか無償提供だったのかわたしはよく知らない。
いずれにせよ、メディアの報道が続く中で、私たちの注意は次第に目的から目標へ向くようになっていった。換言すると、目的群から手段群へ向くようになってしまった。上に、手段(経済)が目的(人命)の地位を奪ってしまったと書いたが、その序幕がこの辺りから実は始まっていたのではないか。

これらの手段としての目標群には価値としての重みは実はない。最上位も最下位もない。これが済んだら次。こっちが済めばさらにその次、という風に現段階で達成された目標が、次の段階では手段となって、次の新しい目標へ突き進む。まさに手段と目標が綿々と連なり合う世界。この価値論的に等価的で工程的な事例のニュースが主要メディアでは、時にそれ自体に価値のあることのように流されていた。そのお陰のためかどうか、海外の人たちも、日本国内の人々も多くは福島原発のことはあまり念頭にない生活ができている。ルーティーンがやっと軌道に乗り始めた、やれやれと。
でも、本当に価値のあるもの、つまりそこに人間の判断が関与しているとわかるようなものとは、「手段と目標の関係」の中にではなく、「手段と目的の関係」の中にこそ見出されるものではないのだろうか。日本社会はもうかなり以前から目的を失っている。実は一度も目的を持ち合わせたことが歴史上なかったのかもしれない。目標ばっかりで。日本をそのルーツにもつ人間論なんてあまり聞いたことないし。ミクロ的にはそれらの目的を目的として捉え広めようとした偉人賢人がいたのだろうけれど。

さて、放射性物質が日本全体に降り注いだことで、いろいろと深刻な問題が生じている。だが、それに対処するような大きな目標(手段)設定はなされていない。これだけの事故が起きたけれども、それに見合う対策を講じているという姿勢が少なくとも行政側から提示されていない。社会にとっての理想的なあり方や、ヒトの存在に対する究極目的が、もともと人々の日常会話のレベルであまり話題にならない社会だから、妊婦や子供たちの命をどう守るか、内部被爆や放射能汚染物質の二次汚染をどう防ぐのかなど、視野を広くし見晴しがきく位置に立って始めて見えてくる手段群が軽んじられている。何故手をこまねいているように見えるのか。それは、手段という言葉が「目標」という言葉に絡め取られた結果、みずからの抽象度を堕とし、費用となってしまったからではないか。だとすると、上で申し上げたように、ただ単に経済が人命に優先させるとは言えないのかもしれない。それはあくまで結果論であろう。
経済が人命に優先するのなら、そのような判断をした人間がどこかにいるはずだが、判断することそれ自体をみずからの手によってあらかじめ禁じてしまうような、没目的的な社会のありように究極の原因があるのではないか?そんな気がする。判断をしなくて済むのは目的の内実が目標だったからではないのか。

思えば、人間の究極目的は死とよく言われる。その究極目的を忘却する社会はその名にふさわしい目的を見失いがちなのかもしれない。ハイデガーを直接読んだことがないから分からないが、カントのアプリオリ(先験)も究極の経験であり、それを忘却する社会は、その名にふさわしい経験を積むことが難しいのかもしれない。考えてみると、費用対効果などという表現が社会で使われているけれど、この効果という言葉も、目的という抽象度の高い言葉が自沈し、具体的になった一つの例かもしれない。

21世紀を人間に優しい世紀とするためには、そのような没目的的な社会を改める必要がありそうだ。
そういえば、養老孟子氏はご自分のことを純粋行為主義者だと書いていた。自分のしている行為それ自体が目的であるような行為。そういう行為が屈託なくできる社会をヒトづくり大国と呼んでもいいのかもしれない。モノづくり大国は、やはり駄目ですよね。





# by yoshiboite | 2011-10-21 16:36 | 時事 | Trackback | Comments(0)

【原発震災】0ミリシーベルトでも危険  

2011年 06月 30日

1980年代から日本の子供たちは受難の歴史をたどっているような気がする。
今回、福島県で採用された20ミリシーベルト受容論はそれを象徴している。

養老孟司氏は、自然破壊をここまで推し進めてきた日本社会が、子供の破壊、つまり少子化を引き起こさないわけがないだろうが、とどこかで述べていた。そう述べているのを警鐘として聴いている人がどれだけいるのかよく知らない。養老氏は、日本社会が身体という自然を消す文化に墜ちてそこから這い上がれない、だから思想としての身体を日本人が持てなくなっているとも書いている。身体の不調、身体からのメッセージに聴く耳もたない文化らしいのである、日本文化というのは。
そういえば、国民という身体からのメッセージが、なかなか政府という中枢に届きにくい国かもしれない。身体を消す文化、よくないですね。やっぱり。

竹内敏晴氏も、身体に本来備わっているはずの、重力に抗うヒトの常に上へ上へと伸びる表現が、子供たちの手と足を縛るような体育の全国普及によって、押し殺されている。だからコトバを持たない身体は外に向かって荒れ狂うか(校内暴力)、内に向かって荒れ狂うか(自傷・自殺)の選択しかない状況に追い詰められているとかつて指摘していた。そして、その荒れ狂う年齢が年々低学年化しているとも言っていた。家庭内暴力が新聞の紙面を賑わした時代があったが、あれはウチか、それともソトか?

宮崎駿氏も、今の時代に生まれてくる子供たちは、本当にとんでもない世界に生まれて来てしまっているんですよ、みたいなことを時々メディアを通じて言っている

90年代に入った頃からかな、少年犯罪の重罰化の傾向が顕著になったのは?

そういえば、つい最近も、犯行当時は未成年だった青年が、死刑を宣告されたのが記憶に新しい。
ちょうどこの90年代という時代は、黒沢清や青山真治が映画監督として注目されるようになった時代でもあった。彼らの描く社会は閉塞している。そしてその中では子供たちが窒息しそうな環境で希望を探し求めている。日本社会ってこんなに暗かったっけ?よくわたしはそう思った、彼らの映画を見た後で。

少年犯罪の重罰化には、ミソがあるように思えてならない。死刑を廃絶するかわりに、罰則を体系として把握すると、どうも無期懲役に値する罪を増やし、厳罰化の底上げを加えるという、一見司法行政の寛大化が見え隠れする流れの中で、少年犯罪の厳罰化が進んだのではないかと疑っている。専門家ではないからよく知らないけれど、死刑廃止論が少年犯罪の厳罰化を推し進めるためのポーズだったのではないかとすら疑っている。

いずれにせよ、荒れ狂う身体が低年齢化する(@竹内敏晴)のだから、ある意味、そうならない方がおかしいのかもしれない。江戸時代から続く、身体を管理するという「思想」(@養老孟司)はどうも揺るぎそうにない。

少年の犯罪であっても、大人との区別なく厳罰に処する。
大人と子供の区別を撤廃して、その帰結として大人の責任を子供に回す。
大人にも20ミリシーベルト、子供にも20ミリシーベルトとはそういうことではないのか。20ミリシーベルトという数値が本質的問題なのではなく、「違い」が有るべき場所に「同じ」を押しつける。それが問題なのだろう。子供を大人扱いしてしまったら、大人はどこにもいなくなる。だから自己責任で危機を回避する自主避難が出現する。逆に、それは、今回の自主避難に伴う危険は自己責任でね、ということでもある。この二つの言葉は、だから異音同意語なのだ。

2003年だったか、イラクでの人質事件で巻き起こった自己責任論と今回の原発事故の、自主避難は奇妙な一本の線で繋がっている。

そういえば、この国には大人がいないと嘆いているのが疑われる本が最近よく目に付く。
一方、「オトナのなんとか」と銘打った書籍雑誌類が、何故か巷にあふれている。

違いが分からなければ同じも解らない。
そういえば、わたしも最近まで、核と原子力が違うものと誤解していた。
実は同じnuclearという英語だった。

問題の根は、結局は子供を真の大人として認めない姿勢にあると思う。子供には言っても解らない。だから今何が起こっているのかその本当のところは教えない。福島県のある親御さんが、ニュースで嘆いていた。放射能のことは説明しないで、身体に有害な花粉症が着ているからと言って、こどもにマスクを装着させようとしても、すぐに登校中に外してしまうと。何故、放射能の危険性を正面から説明しようとしない?

そういえば、おまえには言っても解らん、という相手を認めているようで認めていない態度を取るヒトがまれにいる。

子供の中に真の大人を認めないのであれば、大人の中にも真の子供が宿っていることに気づくのは難しい。自分の中の真の子供を消すことで保たれる大人の社会は成長しない。言葉の定義によってもそれは明らか。成長しなければ瓦解する。事実、養老氏は日本社会はもうかなり壊れていると言う。
ちなみに、この「真の大人」、「真の子供」と言うときの、「真」は科学的に証明されなければ真ではないとされている。だから中立・客観を旨とする大手メディアでは、20ミリシーベルト問題を巡っては、科学者同士でも意見が分かれるところだと言うにとどめている。
どうしてそこで話をとどめるのか。不思議でしょうがない。
10ミリでもいいのか、5ミリならいいのか?
そう言って納得してしまう人たちには、0ミリでも安心できないとわたしは言いたい。

# by yoshiboite | 2011-06-30 14:26 | 時事 | Trackback | Comments(0)

自由報道 やっぱり日本にはなかったのか、、、  

2011年 05月 30日

今日はこんなものを見つけた。
また、こんなものも。世の中を少しでもよい方向へ変えようとする人々の力、大切ですね。

ちょっと情報まで。

# by yoshiboite | 2011-05-30 21:29 | 徒歩散歩 | Trackback | Comments(2)

科学的=セクト???  

2011年 05月 23日

今さっき、福島県に助言をする目的で、雇われた長崎大学の山下俊一教授の話をわたしも始めてu-tubeで聞いてみた。こ、これは、ひどい。あまりにもひどいので、途中で聞くのをやめてしまった。
彼は自分を科学者だと自己定義しているが、彼が言うところの「科学」とは一体、何時の時代の科学なのか?そう問いたくなった。
科学に、まだ科学史というものが存在していない頃の科学。これがわたしの頭に浮かんだ答えだった。要するに、古い、の一言。

近代科学はキリスト教文化圏から生まれた。これは皆知っている。
そして歴史上、科学が宗教の解毒剤であったこと。これも、よく知られている。

しかし、科学的な精神を最初に社会の中に浸透させようと意識的に企んだのが、科学者たちの集団であるよりもむしろ、宗教側の人たちであったことはあまりよく知られていない。天地動乱、時代が不安定になる時、社会を構成する諸集団、特に宗教集団の中に少数ではあれ、かならず「狂信グループ」(セクト)が生まれてくる。
そうしたセクトに正しい信仰の道、あるべき信仰の道を諭すために、宗教側が科学の持つ落ち着いた分析力を駆使したという歴史が実はある。

本来ならば、一般庶民の人々に精神的平安をもたらす役割を担うのが宗教だが、自分たちの教団内部の不穏分子には手を焼き、科学の力でしか、彼らの「常軌を逸した」信仰心を矯正できなくなった。そんなことが実際にあったそうだ。実はわたしもその詳細は知らない。いずれにせよ、宗教だけでなく科学にも、結果的に人々の心を静める力があったのだろうなあ、と驚く。
山下教授は、福島県民の心を静めるために、政府から福島県に派遣された。ならば彼は科学者か?科学者であろうはずがない。県民に語りかけたとたん、彼は宗教家である。たとえ肩書き上、科学的知見を携えて、福島入りしたとしても。
だから、彼を100ミリシーベルト浴びてもOKという幕府の「お触れ」をだす学者として、巷は糾弾するのではなく、単なる説教者として、その言葉の重みを測ったほうが話は分かりやすくなる。
そして、その説教者としてのレベルで、彼が肩書き上持ち合わせている科学的知見を測ればよいと思う。

結果は殺伐たるものに違いない。

いったい、誰がどういう過程を踏んで、彼をはじめとする放射線を専門にした「科学者」4人を福島県の健康管理アドバイザーに決めたのだろうか。わたしはむしろそっちに興味があるが、メディアはソコを伝えない。

昔、フランスのブルターニュ地方を旅してあっちこっち廻っていたときに出会った男性がわたしに送ってくれた言葉が今でも忘れられない。
なんの議論をしていたか忘れてしまったが、話の途中で、わたしが、「でもそれって科学的に証明されたことなんですか」と彼に聞くと、彼はこう答えた。
「科学的だなんて、そんなもの、セクトの最新の呼び名にすぎないよ。」

# by yoshiboite | 2011-05-23 18:30 | 徒歩散歩 | Trackback | Comments(0)

文化(Culture)のことは考えない  

2011年 05月 19日

国旗国歌と公民教育という題で、内田樹氏がブログを書いておられる。彼の目は、怒り心頭でいつになく三角にとんがっているのではないかと想像してしまう。そう、彼は橋下大阪府知事率いる大阪維新の会が、府議会に提出予定の「君が代斉唱時に教員の起立を義務化する条例案」の件で怒っておられるのである。

彼の怒りはもっとも。私もこのニュースを見たとき、ああまた橋下知事はバカなことをやるもんだなー、まあ自分の支持率を気にしないとやっていけない立場だからしょうがないのだろう、なんて軽い気持ちでパクパクかっぱえびせんを食べていた。
うまいうまい、モグモグ。やめられない、止まらない。

しかし、ブログにもあるように、何故内田氏のいうことに賛同してくれる人は少ないのか、それが私にはなかなか解らない。気になる。だからちょっと考えてみた。
でも彼のように情理を尽くして説明することはわたしには苦手だ。

だから、結論から先に言うと、彼のブログの題からも解るように、国旗国歌と公民教育は、その順序を下手クソに置換すると、とんでもないことになりますよ。彼はそういいたいのであるが、そこが何故か理解されないのかもしれない。その辺りの理路をちょっとここへ書き残しておこう。


「国旗国歌」はある国の文化的統合の象徴。
「公民教育」はその文化の中で起こりうる人間形成の象徴。人格形成と言ってもいいか。

大阪維新の会のメンバーは、おそらく国旗国歌というものが象徴する、ある一つの固有の文化が形成されるプロセスと、公民教育が象徴する人間形成、つまり人が育つプロセスを同じ課程として捉えているに違いない。だから、内田氏も言うように、大阪府知事の口からは、「国民国家の公民意識を涵養するために学校教育は何をなすべきかという論考」が出てこないのだろう。

要するに、国を愛すれば、人が育つ。そういう考えに立脚している、維新の会の人々は。「旗」を通じてそれを履行させるか、「歌」を通じてそれを履行させるかの違いこそあれ。だが、これこそまさに、「ああすればこうなる(@養老孟司)」の典型ではないか!
おバカだよねー。わたしは気が短いから、こんな表現で気を紛らす。
人が育つから国が維持されるのに、本当は。
人間形成(公民教育)あっての文化形成(国家統合)。人は石垣、人は城。そういう意味で解釈できる。
両者を混同してもらっては困る。ほんとうに困る。

城を造れば、城壁の中の人間はサムライか?バカも休み休み言え。ディズニーランドを作ったから、アメリカに古き伝統が生まれたという話は聞いたことがない。

人を育てないと国家は持たない。これが維新の会のメンバーたちが考えたことだろうと思う。わたしはこれを、間違いだとは思わない。間違っているのは、国家(ここではつまり自分が属している文化)を大切にする心(しかも上部から押しつけられた心)で、人間形成のプロセスが起動できると思っている点。

Culture(文化)がまず始めにあるから、そこにヒトが生まれるのではない。
Formation(人間がヒトに育つ)がまず始めにあるから、そこに文化が生まれる。
これは常識のはず、たとえ(ば)ヘーゲルなんて難しいものを読まなくても。

言っちゃあ悪いが、大阪維新の会の人々は、一人で孤独な戦いを興じている。それが、同志がただ自分の横にもちゃんと見える形でいるために、みんなで一緒に戦っているという錯覚を持っているに過ぎない。彼らの戦いはひどく抽象的であることに尽きている。CultureとFormation両者の無意味な主導権争いに勝手に巻き込まれ、前者に軍配ありと勝手に叫んでいる。ただそれだけのことだ。負けがはなっから見えている戦いに挑んでいる。「滑稽」では済まされない実害をもたらすのは、いつもこのタイプの「戦い」だ。

それに対し、内田樹氏が言及している、切磋琢磨的な戦い、つまりどうやったら人間がヒトに育つかという答えのない問いはもっとずっと具体的で、肌の感覚に近い戦いである。そんな戦いを昔から百家争鳴と私たちは呼んできた。

その意味で内田氏は『まさに「公民教育はいかにあるべきか」という激烈で生産的な議論が終わりなく現場の教師たちによって、あるいは親たちによって、あるいは教育学者や教育行政官や政治家を巻き込んで続けられ、その過程でひとりひとりの教員が自説を論証するために、多様な教育方法を創案し、工夫することこそが、日本の子どもたちを市民的成熟に導く捷径である』と言っておられるのである。

必ず負ける構図の中で(だって敵というものが実は存在すらしないのだから)、抽象的な戦いを挑んで、国民に不幸な運命へのチケットを売って歩くのがいいのか。それとも、ちゃんと足下の見える戦いで、気づいたら百家争鳴となっていたというのがいいのか。結果は見えてきてもよいはずだ。

結論は、だから公民教育をまず考えて、だ。
文化は後からくっついてくるのだから。
文化は考えない、考えてくれてもヒトがそこでは生(活)きない。

# by yoshiboite | 2011-05-19 03:44 | 美味エステ | Trackback | Comments(0)

わっはっは!  

2011年 05月 16日

これ面白い

これも面白い

# by yoshiboite | 2011-05-16 16:24 | 美味エステ | Trackback | Comments(0)

「片思い」に「貢ぐ」が加わると  

2011年 05月 15日

自分の自由にできる時間を利用してテレビを見る。
自分の時間を売って、内容を買う。こんな風にテレビと自分の関係を意識する人はあまりいないと思う。こんな考え方をうっかり口に出せば、変なこと考えるねで終わりであろう。
テレビの電波受信機を買えば、あとはほとんどただ。多くの人がそう思っている。買うのは番組内容ではなく、テレビの本体なのだと。実際、受信料はBS等の衛星やケーブルとかを除けば、NHKに対してぐらいだし。

でも、お金は払っていないけど、時間は払っている。ある人がテレビの前にある一定時間座り続けるとき、経済学的にいうと、彼は自分の時間を売って、テレビの放映内容を買っている。そんなつもりは全然ないと私も含めて多くの人は思っているはずだが、いちおうgive and takeの関係で、テレビと自分の関係を捉えるとこうなる。
テレビ会社はそこそこの番組を我々に提供する代わりに、陳腐な広告も一緒に電波で流す。ただで受け取っているのだから、そのくらいは耐えてください。そういう風に自分と民放テレビの関係を捉えている人もいるのではないか。でも、この関係は目に見えすぎる関係だろう。

もう少し目に見えない関係を考えてみよう。

わたしたちの多くは番組のナカミを見ているのであって、コマーシャルはすっ飛ばして見ていないと思っているが、実は民放会社は、私たちが自分のものと思い込んでいる自由時間、つまりヒトの意識の流れを電波の流れで吸い取って、それをいろいろな広告主(自動車会社とかパソコンメーカーとか)へ切り売りして成り立っている。もっとも、自分の脳を知らず知らず第三者に提供されたヒトは、実は自分が部分的にではあれモノ化されたという意識は持っていない。テレビと自分の関係においては、自分にはまだ交換行為の主体性が残っている、と考えるから。でも、目に見えないテレビと広告主(たとえばある製造メーカー)の関係に着眼すると、じつはそっちの関係の方が重要だということが判明してくる。
そこではヒトは確実にモノと化している。番組が終わると、「この番組はご覧のスポンサーの提供でお送りいたしました」とアナウンスされる。ちょっと違うだろうが。スポンサーが、テレビ放送局を通じて、視聴者に番組を提供しているのではなく、テレビ放送局が我々の意識の流れをスポンサーにご提供しているんだろうが。

ヒトが自分はなんだか最近モノ扱いを受けているぞ、そう思いだしたのは、「主」であると思ってきた「目に見える関係」が実は従で、「従」であると思っていた「目に見えない関係」が、実は主であったと気づいたからだろう。片思いはいつの時代になってもつらい、、、

テレビ番組の質の劣化が言われて久しい。それは、ウチの製品を是非買ってほしいというメーカーの意向が、コマーシャルの時間帯だけでなく、番組の内容にまで反映されるようになったからではないかと私は疑っている。「片思い」に、「貢ぐ」が加わっている状況で、これはかなりひどい。

では、以前からこんなひどい状況だったのか?そんなことはない。
ひと昔まえ、「日本昔ばなし」という良質の番組がある放送局で流されていた。このアニメの物語のナカミに、メーカーの意向が反映されていたとは思えない。公共の電波を預かっている放送者の使命が、そこにはまだ健在していた。そう考えるべきだろう。

ならば、公共放送の代名詞であるNHKはどうか?NHKにはコマーシャルがない。そのかわりに、毎月払う受信料がある。だったら、少なくともNHKは我々をヒトとして扱ってくれているのではなかろうか?もうずいぶん前から、一度もそうであった時代はなかったのではないかと疑っている。今回の原発震災のNHKの報道ぶりを見て、私の頭の中では、それが確信のレベルに至りつつある。どうも、脳、つまり意識の流れ(ヒト)が政府に売られているようなのである。政府に媚びしていると言い換えてもいいかもしれない。売られてしまったヒトは、その時点でもうすでにモノである。

だから、私は少し悲しい思いを持った。今回の東日本大震災で、被災した避難者たちが集まる避難所で、情報源として置かれているテレビの周りに人々が集まっている映像を見て。

テレビを見ればヒトがモノ化する構造は、実は、知り合いのJulien Gautierのかみ砕き。
彼の視点はもっとずっと哲学的。私のように不真面目な文章を彼は書かないことをここに注意書きしておこう。

# by yoshiboite | 2011-05-15 16:16 | Philosophie | Trackback | Comments(0)

『新聞に未来はない』そうです @養老孟司  

2011年 05月 12日

今、養老孟司氏の著作「大言論III」 を読み進み中。

そのなかに、『「新聞に未来はない」 そうです』という章がある(p.109)。
この本はもちろん震災前に書かれた彼のエッセーの拠り集めだが、今回の原発震災の報道ぶりを見て、新聞やテレビに魅力を感じられなくなった人が日本国内においてもかなり増えたのではないか。そんな気がする。
正直、もうずっと前から民放テレビの大半はみられたものではなかった。
今回、その列にNHKも加わった。そういうことだろうと思う。
でも、実は、これはわたし個人の意見であるというより、かなり多くの人々の意見なのではないか、そんな気を今回はじめて持った。

軍国主義という言葉は敗戦後に広く世間に流布した。その時、そこにいる人間たちほとんどすべてに見えていないモノを後から名前をつけて呼ぶとそんな表現で落ち着くのではないかということで、そんな名前になった。戦時中、そんな言葉はなかった。

今回は原発主義という時代にいたらしい(@石橋克彦)。チェルノブイリ基準だと琵琶湖の大きさに匹敵する、強制移住区域をすでに東北地方に繰り広げてしまった以上、福島原発の事故で明らかになった、『見えなかった過去(現在進行中の課程)』が目の前に現れてくる。見(せ)たくない現実として。

見(せ)たくない現実を、新聞もテレビも報道しないから、『そうです』なのだろう。

そうに決まっている。

そうだ、増村保造の『清作の妻』でも観ようかな。



# by yoshiboite | 2011-05-12 00:59 | 時事 | Trackback | Comments(0)

ヒゲの心配  

2011年 05月 07日

このたびの原発震災で思った。
今でも強く思っている。
日本人はどこか全体的に病的にのんきだなと。

浜岡原子力発電所を停止するしないでまだ揉めている。首相の要請にもかかわらず。

黒澤明の『七人のサムライ』にでてくる、村のじいさまが、野武士たちに村が襲われたらどうすべきか、その対処方法に揉める農民たちの一人に言う。

『首が飛ぶかもしれない時に、ヒゲの心配してどうすっだ?』

日本人、ヒゲの心配には強い!

# by yoshiboite | 2011-05-07 21:25 | 徒歩散歩 | Trackback | Comments(2)

田中優さんの講演、なかなか面白い。  

2011年 05月 05日

こんな人、日本にもたくさんいるんだろうな。
ただ、人々の目に余り触れないだけで。ご本人も自分で言っているけれど、、、
一応ここへ貼り付けておこう。誰かいつか見るかもしれないから、偶然に。




# by yoshiboite | 2011-05-05 14:45 | 徒歩散歩 | Trackback | Comments(0)

【原発】フクシマの人々へ  

2011年 05月 03日

本来ならばフランス語を操るわたしも『フクシマ』の問題は実際どうなっているのかを、日本の外部にあるメディアをわかりやすく砕いて日本語で発信できればよいのですが、いかんせんそのためのTICがありません。
さっき、フランスのメディアでフクシマがどのように伝えられているか、和訳してくださっている人たちがいることを知りました。『フランスねこのニュース』というブログです。

いちどご覧になることをお勧めします。

以上、拡散希望情報です。おねがいします。

# by yoshiboite | 2011-05-03 00:25 | Comments(0)

のびのび疎開の基盤  

2011年 05月 02日

日本政府は疎開を考えないのは何故なのだろう?

福島県のほぼ八割の地区では、蓄積被曝線量がクリティカルレベルに達しつつあるはずで、とても子供たちがのびのびと育つ環境に置かれるとは思えないのだが。

色々な人たちが疑問を持っている20ミリシーベルト限度論。とうとう外国からの知的介入ありましたね。国内からの声もあったにはあったが、広く日本国内に伝播している感じではなかった。

しかし、つくづく思う。u-tubeやgoogle、ustreamやツイッターなどの外国発の情報伝達技術の社会浸透がなかったら、この原発事故はどのように処理されていたんだろうかと。
おそらく、ソ連時代のチェルノブイリ以上に悲惨な結末を招いていたのではないか。そんな重たい気持ちになる。前回添付したフランスのuniverscience-tvでも、質問を受けた研究者が日本政府はCommunicationは出しても、Informationは出さず、むしろゆがめられた形でしか後者を出していないと言っていた。

どうも暗くなる。独立系のメディアにはエールを送りたい。

# by yoshiboite | 2011-05-02 11:12 | Trackback | Comments(0)

どうしようもない政府  

2011年 05月 01日

関東圏に住む住人はこれから食物連鎖に注意しないといけない。

今の日本政府はあまりにもサイエンスを馬鹿にしているようだ。

フランスのメディアで福島原発の情報を集めれば集めるほど、フランスの心ある科学者たちは一致して言う。

日本政府、血迷うたか』と。

# by yoshiboite | 2011-05-01 16:28 | Trackback | Comments(0)

【原発】それが話題にもならないという形で  

2011年 04月 25日

3月11日の大震災以来、わからない、あるいは知らない、と自分でそして集団で思えることの大切さを痛感する。なぜかというと、わからないと自分で思える人、あるいは知らないとわかる人のみが、自分の言動によって他人を、そして心の行為によって自分をだますという落とし穴から自らを守る機会に恵まれるような気がするから。いま、機会に恵まれると書いた。つまり、たとえそうすることが出来る人であっても、自己をだます様々な行為(自己欺瞞)からいつも逃れられるとは限らないから。
福島の人々は今怒っている。原発は安全と言われてきたのに実際はとてつもなく危険だったからだ。騙されてきたと思っている。じゃあ、誰が騙してきたのか?一義的には国や東電に代表される電事連、およびその取り巻きに決まっている。だが事故が発生する前までには、いつの間にか、かなり多くの人々が安全と思い込んでいた。わたしも含め、自分でそして集団で思い込んでいた。それが話題にもならないという形で。
もちろん、今、時の人となっている、京都大学の原子炉実験所の小出裕章氏や今中哲二氏らはずっと長い間警告を発していた。今回の原発の危機を機に、熊取六人衆という人々がいることを知って、わたしはとても勇気づけられた。彼らに共通する点は、自分に正直に生きる点だと小出氏が話していた。原発推進派と彼らを隔てている壁は、結局はこんな基礎的な人間の生き方にあるのだろう。自己欺瞞のなかで人生を終えたくない、と。

いずれにせよ、私たちはソレが話題にもならないという形で、ソレを生きすぎているのかもしれない。じゃあ、ソレってナニ?知らない。だからソレなのだろう。

かつての原発推進派であった、大学教授ら専門を極めたとされる錚々たる面々も、ソレなしでいけると期待した。放射能大量放出なんてナシでいけると期待した。
だが、「アリ」はやはり有った。

専門家だから専門バカで常識に欠けているとかいないとかではなく、ただ単にどう生きるか。実はソレがまず問題なのではないか。
ただ、一度専門分野を極めたら、必ず戻ってこなければならない場所がある。そんな気もする。それはヒトの基幹的部分。
その部分を機関的organeといっても、器官的organeと言い直してもあまり変わらないと思う。社会が組織的に生み出すオーガナイズ上の欠点と、人間なら誰にでも備わっている器官的欠点(脳という臓器の不調も含めて)がコンビネートするとき、とてつもない「アリ」がやってくる。
だから、ソレを避けるためにも、人間という動物をしてヒトたらしめているオルガノン(道具・技術)全般の弱点に立ち戻る場が必要なのではないかとおもう。

原発推進派の人々はそこに立ち戻ることを拒否した。それだけのことが、どれだけのことか、今やっとわかって総懺悔の日々なのかもしれない。しかし、私たちとて、これだけの大惨事の後になっても、そこにまでは立ち戻ろうとはしていない。そんな場所はない、と。だから、ソレなのだろう。そこにまで立ち戻ることをしない日本社会に、半ば絶望気味に茂木健一郎氏が彼の最近のブログで言及していた。

ところで、先日ここのブログで養老孟司氏の話を書いが、今日は別の彼の逸話をここへ記しておこう。

彼がまだ若かった頃、東京大学病院に勤務していた頃の話。この病院には、ほんとうに他の大病院では扱えない人々が連れてこられる。ほとんどの人が最後の希望を持ってこの病院で入院生活を送る、そんな病院だ。だからほとんどの人が病床で亡くなる。でも、養老氏によれば、例外的に一命を取り留めて、回復していく患者さん達もいたようだ。そうした救われた患者さんが執刀医である先生の前にやってきて、感謝の言葉を述べるのを彼は傍で聞きながら、心中こう思っていたらしい。「あんたね、今回は助かったけれども、どうせまた別の病で逝っちゃうよ」。

養老氏を引用した理由はもうわかっていただけたかと思う。
たとえ今回、原発の危機を乗り越えても、別の危機的状況で、どうせまた死と隣り合わせの状態が続く状況を自分たちで作り出すよ。

この超長期的な、つまり、みずからの想像を「常に超える」危機の連鎖を断ち切らないといけないと思う。もちろん、すべての連鎖を断ち切ることは出来ないが、その機会に恵まれるように努力することは可能だ。

この超長期的な超をアリとするのか、ナシとするのか。ある意味、非常に日常的な努力ではなかろうか。ソレもアリでいこう。脱原発の陰の推進力はたぶんここにあると思う。

ちなみに、原発推進派はこう言っていたのではないかと推察する。
「ソレも理論的にはあるかもしれないが、技術的にはまあナシと言うことで、、、」



# by yoshiboite | 2011-04-25 19:09 | 時事 | Trackback | Comments(0)

戦闘モード財団  

2011年 04月 20日

「脱原発」のための自然エネルギー財団設立へソフトバンクの孫正義社長が動き出した。
とりあえず10億円の資金で設立されるらしい。

そういえば、フランスの特集番組『Envoyé spécial』によると、つい先日、孫社長がある全国テレビのある番組に出演しようとした際、番組のプロデューサーから、局のスタジオに入る直前に、いくつかの点には決して触れてくれるなと言われたらしい。

口封じをされたと本人が怒って、外国の記者に説明していた

その口封じへの、彼なりの答えの一つなのかもな、今回の財団設立というのは。
すごく期待してしまう。

# by yoshiboite | 2011-04-20 22:02 | 時事 | Trackback | Comments(0)

京都大学原子炉実験所、小出裕章氏の講演なう  

2011年 04月 16日

++++拡散希望情報++++
小出裕章氏お話。浜松原発の危険性について。

小出裕章氏原発学習会(主催:生活クラブ生活協同組合・静岡)
2­011.04.16 13:45~15:45

ustreamでライブ放送されます。ustreamを開き、さ­らに「小出裕章氏原発学習会」と打ち込んで画面を開く。この情報­ 拡散してください。



上のようなものを見つけました。
興味のあるひとたちはもうすでに見つけておられると思うが。

この記事は以下のURLからです。
http://hiroakikoide.wordpress.com/ 

# by yoshiboite | 2011-04-16 13:40 | Trackback | Comments(4)

養老孟司の大言論II、読んでます  

2011年 04月 14日

養老孟子氏の最新の著作「大言論II」を、とても興味深く読んでいる。
今ちょうど本の半ば、『お金や情報は「現実」か』という章にさしかかっている。
そこでは、前章から引き続き、「違う」と「同じ」というテーマ、つまり差異と同一性の問題が別の観点から論じられている。現実というテーマが何故、後者の問題に引き継がれるのか、それをちょっとここへ記しておく。彼の現実の定義がまず面白い。現実とは人間の行動をうながすもの、これが彼の定義。自分が死ぬという知識は人の行動を変える。だからこの知識はもはや知識ではなく現実である。しかし社会を一望すると、同じ私が違う私になるという現実、つまり究極的には自己の死を含む、現在進行形の課程は、人々を動かさない。少なくとも動かしているようには見えない。要するに死は「あるようでない」。こう養老氏は述べる。まさに今現在、進行中の福島原発の危機が、何故か日本人を1ミリたりとも動かしていないようにみえるのと呼応するではないか。まあそれはそれとしても、「同じ」が「違う」に変化する「現実」(いまならまだ「原発」と置き換えてもいいかも)が、現代社会を生きる我々に決定的に欠如している点をまず喚起してから、差異と同一性の問題に彼は突入していく。

養老氏の大言論Ⅱを読まれていない人には申し訳ないけれど、ちょっとここに思ったことを書き残しておこう。

さてその差異と同一性の問題である。
「同じ」を西洋系の言葉の代表である英語で言えばsameとidenticalがある。「この2語はどこがどうちがうのか」と彼はまず問う。さらにこの2語は日本語の「同じ」とどう違うのかと問い続ける。
養老氏の仮説はここでもとても興味深い。有名なデカルトの「我思う、故に我あり(コギトエルゴスム)」の「コギト」の部分に「同じ我」が暗黙のうちに前提されている、というのだ。

「『我が思う』(コギト)のはそれでいいのだが、かくいう私にしてみれば、『明日の我』が思ったときに、それが『昨日と同じ我』だというのが問題なのである。どうしてそこで同じという話題が出ないんだろうか」(p.151)

「同じという話題が出ない、、、」。
つまり昨日のコギトと今日のコギトは違うはずなのだが、ならばどうしてそこで「同じ」という話題を自分にも気づかないようにあえて隠すのかと彼は問う。個体のろうと液体のろうは同じか違うかを問い尽くしたデカルトなのだから、養老氏の疑問ももっともだ。
もっともデカルトにしてみれば、隠しているつもりは毛頭ないのであろう。それならそれは言葉の無意識のレベルに沈着している言語的偏向なのではないか?そう養老氏は仮定する。
つまり「西欧語を成り立たせている前提に、『同じ』と『違う』という主題を日本語で考える場合とは、違った偏りがあるんじゃないか」(p.151)と彼は仮説を立てるわけである。しつこく説明的に言うと西洋語一般には、ちょうどデカルトが知らず知らずそうしたように、「同じ」という働きが言葉のレベルですでに暗黙に前提されているのではないか、と養老氏は問うのである。

他方、それなら日本語に暗黙のうちに前提されているのは何だろう。それは「違い」ではなかろうか、と彼は続ける。
何故かというと、たとえば双子を英語ではidentical twinsと呼ぶ。この双子の立っている場所が「違う」にもかかわらず、あらゆる点でその双子が持っている特徴は「同じ」だからということでidenticalと形容する。つまり「同じ」が英語においては前面に出てきてしまっている。
日本人である彼はだからこう問いかける。「いる場所が違うじゃないか」と。そして彼は気づく。「日本語で同じというとき、対象の時間的同一性を指す方がしっくりくる。いくら〔その双子が〕似ていても、二つの〔空間的に異なった位置に存在する〕ものは同じではないからである。」(p.152)

対象の時間軸における同一性に対して親和性を持つ(しっくりくる)のが日本語であればこそ、その空間軸における同一性に違和感を持つのが日本語なのであろう。こう彼は主張しているようにみえる。
だから、たとえば日本語で同一双生児と表現したら、「昨日のあの双子の組という意味になってしまう」。西洋語ではこの対象の時間的同一性が言及されていない。つまり隠されている。デカルトでさえ気づかなかった。よって西洋語では、その同一性が暗黙の前提を構成している。
ところで意識とは同じという働きである。そしてこのはたらきが、西洋語の前提であるのなら、西洋語の基礎は「概念」であろう。ならば、他方、日本語の基礎は「感覚」なのではないか。このような推論で養老氏は「違い」にこだわる日本語を「発見」する。

そしてこの推論の土台をさらに強化するように、彼はドイツ語のドッペルゲンガーという概念を持ち出してくる。この概念は同じ自分が二人ある、あるいはいることを指す。ジキルとハイドしかり。カフカの変身しかり。スティーブン・キングの小説に出てくる「自分がふたりいる」というテーマしかり。
養老氏によれば、日本語でこの概念が適用された例はあまりないらしい。ないと明言しているわけではないが、日本語には暗黙に、「同じ二つが〔空間的に〕あるわけないだろうがという常識」(p.153)が優先しているらしい。優先していると彼が言っているのではないが、そう読める。

空間軸における対象の「違い」にめざとく気づく日本語と、その「違い」を「同一」として扱ってもあまり気にとめない西洋語。

これが彼の仮説の概要で、だから「違い」、つまり感覚的思考を基礎に持つ日本語と、「同じ」、つまり概念的思考をもつ西洋語の対比が成り立つ。わかりにくい説明になったかもしれない。頭がこんがらがってしまったら、もうしわけない。

さて、以上が彼の仮説の「表」なら、その「裏」も述べる必要はないか。そう私は思うのである。だから今こうしてメモっている。
即ち、もし日本語が空間軸における対象の違いにうるさいのであれば、時間軸における対象の「違い」にはあまいのではなかろうか、ということなのである。かつまた、西洋語においては時間軸における対象の違いにはけっこう敏感で、日本語では時間軸における対象の「違い」を「同じ」として扱ってもあまり気にならない。あるいは扱う傾向がある。ということにならないか。だから、養老氏も指摘するように、日本語で「同じ」と言うとき、それは対象の時間的同一性を指すほうが「しっくりくる」。
そうであれば、この日本語の時間軸における対象の同一性に対する無抵抗は、概念的思考が、「違い」にこだわると養老氏が感じている日本語においてさえも、感覚的思考を凌いでいる印にならないか。そんなことはむろん養老氏は痛いほど分かっている。何しろ脳化した日本社会を彼ほどこてんぱんに批判できる人も少ない。
ただ、ヨーロッパの「同じ」では、ジキルとハイドは厳密にはそうとは言えないが、少なくともドッペルゲンガーという概念は「空間的に同居する同じ私」を指し、日本の「同じ」では、昨日の私は今日の私で「時間的に同じ私」を指す。どちらにも同じ「同じ」が負荷としてかかっている。ヨーロッパでは空間的に、そして日本では時間的に負荷がかかっている。変な言い方だが。
だとすると、同じ「同じ」にしても、むしろ時間を通じて同じである私、あるいは同じである対象の方がタチが悪くないか?これが私の最初の疑問なのである。

実は彼が、「西欧語を成り立たせている前提に、『同じ』と『違う』という主題を日本語で考える場合とは、違った偏りがあるんじゃないか」と言った時、私は次のように思った。その「違う偏り」は自転車を右傾させて走る場合と左傾させて走る場合に生じる「違い」であって、実は「同じ」ライン上を走っているのではないか、と。どうしてそう思ったか、それを以下に述べてみることにする。ただ傾きの向きの「違い」よりも、「同じ」ラインを走っている、と私がここで強調してしまっているように、私の考えはすでに中立的でないのかもしれない。


ヒトは時間と空間の中を自由に動きながら、自己確認をする生き物だとここで仮定してみよう。たとえその自由が単なる幻想であっても。何が言いたいか。ヒトは常に「同じ」場所ゼロを歩いているにもかかわらず、「違う」場所にいる、と信じている生き物なのだと仮定したいのである。
自分でも変な仮定だと思う。空間を自由に動くことが幻想であるわけないだろうが。実際にA点からB点へ移動できているではないか。そうなのだ。だが、自分のいる場所がA点であろうとB点であろうと、そこに自分がいる限り、それは自分の根本的な居場所ゼロから逃れられていることにはならない。そんなことを言いたいのである。
時間の中における自由の幻想は、話がもっと単純である。楽し過去を思い出し、来るべき未来をわくわく待つことに、多くの人は没頭する。でもそれも今という時間のゼロ地点にいながらそうしている。ヒトは絶えず進行する現在から逃れることが出来ない。
同じであって違うことに、おそらく時空という概念ほど当てはまるものはない。たとえば紙の上に一筋の線を引けば、時間は空間化、つまり物質(モノ)化する。物質によってたとえば音を出し続ければ、空間は時間化する、つまり意識の流れ(ヒト)が生じる。モノとヒトはことほど左様に、差異と同一性というテーマに絡み取られているように思える。「同じ」という意識の働きが強くなると、ヒトは自分のモノ性(ある意味で受傷性)を忘れるということか。ちょっと難しくなってきた。差異と同一性を哲学的に述べると中途半端になる。やめて、もっと一般的な話を出そう。
Daniel Pennacというフランスの小説家が書いたLe dictateur et le hamac (独裁者とハンモック)という面白い本がある。実はまだ読み終えていないこの本のメインテーマが、なんとぴったり差異と同一性のテーマなのだ。どれくらいぴったりかというと、本を読んでいただくしかないが、この小説の中に面白い箇所がある。ヨーロッパ言語の窓を表す言葉の語義は、la fenêtre, la janela, das fenster, the window, la finestraのどれをとっても「同じ」だが、これらの窓は開けたとたん、聞こえてくる音は「違う」し、その窓を閉めたときに味わうことのできる生活のリズムも「違う」。そんなことをいっている箇所があった(原典p.65)。まったく、そうだよなー、なんて思ったが 世の中のすべての「モノ」にこれは当てはまるのかもしれない。

何の話をしていたか。そうそう、同じであって違うヒトは自己確認するために自由という幻想を迂回する。その時にとる方法が時間的か空間的か、ということだった。ここで変な例を持ちだそう。プラトンの有名な洞窟の寓話では、人々が洞窟の壁を向いて、横並びになって鎖でつながれている。プラトンの場合は洞窟の中心に置かれている薪の火に誰かが最初に気づくのだが、もしこの火がなかったらどうだろう。横並びに繋がれた人々のなかに自分もいるとき、そこで自己確認をする方法は二つある。前に一歩出るか、後ろへ一歩引くかである。前に一歩出れば、時間の上で他人を制する(時間的超過)。後ろへ一歩引けば、それだけ空間が、あるいは奥行きが広がる(空間的超過)。

にもかかわらず、我々は時間軸ゼロ、空間軸ゼロの位置に居続ける。
時間的超過で自己確認するクセがあるということは、時間軸の上をゼロ点に居続けながらも-1から+1へ移動する実感を求めた上でそうなるということだろう。この移動によっておそらく出発点と到着点の差は現れては消えという運動を繰り返す。時間軸上の差が消えるから、空間軸上の差はかえって目に付く。だから空間的に同じ二つはない、と日本語の前提の場合、なるのではないか?
逆に、西洋語の前提の場合、空間的超過で自己確認をするクセがあって、空間地点-1と+1の差が目に付かなくなるが故に、時間軸における差異に敏感になる。それならば、ヨーロッパ言語が全般的に空間的差異に、双子の違いに鈍感になることの説明が付く。

結局、何を言いたいのか。つまりこういうことだ。
養老氏は、昨日の机と今日の机は違うといっているが(p.152, 155)、実はその時間軸上の違いにめざとく気づくのは、彼がすでにヨーロッパの感性を自分のモノとして身につけているからではないか、ということなのである。養老氏ほど西洋の書物と格闘してきた人間も珍しい。だからこれは決してあり得ないことではない。と私は思っている。
最後に、日本にあってヨーロッパにないものを挙げれば、きりがないが、年賀状というおもしろい習慣が日本にはある。これは、養老氏の文句をもじっていえば、時間軸上に「同じ二つがあるわけないだろうが、という常識」が日本にないおかげでできる営為かもしれないのである。
実際、年賀状を毎年お正月に、友人知人に出すときに、日本のヒトは、以前の自分を前面に出すのだろうか、それとも今までとは違う自分を出すのだろうか。
そのどちらでもなかったりして。ということも十分ある。

長くなったが、要するに日本では時間軸上を移動する際、ヒトであれモノであれ同じであろうとする傾向が強いのではないか。そう思ったのである。いいことも悪いこともそれで引き起こされるだろう。その悪いところを取って、「タチが悪い」と上に述べたのである。
西洋語の前提に「同じ」がある、つまり概念がある、そして究極的には神がある、というのはその通りだと思う。だが、そのための解毒剤として、彼らは空間に奥行きを持たせてきたのかもしれない。
日本語の前提になっているという「違い」にももしかすると、時間上の奥行きという解毒剤が存在するのかもしれないが、それが何なのか分からない。
時間芸術の大風呂敷をひろげる器かもしれないな。

# by yoshiboite | 2011-04-14 20:16 | books | Trackback | Comments(0)

毎日放送なう 『なぜ警告を続けるのか』  

2011年 04月 10日

先日から、原発問題に無知であった自分を反省し、いろいろとネット空間を巡航していたら、いまさっき毎日放送制作のドキュメンタリーに出くわした。

『なぜ警告を続けるのか』というとても良質なドキュメンタリー。こちらからも視聴可能です。

なんか、昔見て感動した、Andrew WilesのBBCのドキュメンタリーを想い出してしまった。








# by yoshiboite | 2011-04-10 17:32 | 時事 | Trackback | Comments(0)

体に影響を与えない被曝(放射)線量は存在しない  

2011年 04月 06日

NHKでは、いまだにニュースのアナウンサーたちが、あるいは枝野官房長官が「直ちに健康に影響が出るレベルではない」とテレビで言っている。のをわれわれはいまだに目にする。

この表現の曖昧さに、何とも言えない思いを持っている人は、いまだに多いのではないかと思う。

どのような意味において、放射能を浴びることが危険なのかを小出裕章氏が、最近山口県で行われた講演で、非常にわかりやすく説明してくださっている。皆さんも広めてくださいな。

表現の曖昧さでは、福島原発から20~30km圏内にまだ残っておられる人々に対する、「自主避難政策」も上述の表現に負けない。この曖昧さに、禅僧の玄侑氏が怒っておられた。
もっともなことだ。
NHK教育のETV特集だったか、彼が出てきたのは。彼を私は初めて見た。養老孟子氏と本を共著で出しているから名前しか知らなかった。
今回はルポライターの誰かと対談形式の番組だった。またいつ見れるか分からないが、ここへ貼り付けておこう。こちらからでも観れるが。

福島原子力の問題では、わたしはもっぱら、神保氏と宮台氏のビデオニュースを頼りにしている。
「偏っている」と思われるかもしれないけど、彼らが日本でもっとも海外の一流ジャーナリズムのレベルにまで達しているメディアだと私は思うから。




# by yoshiboite | 2011-04-06 15:54 | Trackback | Comments(0)

Pierre Soulages  

2011年 04月 01日

彼がまだ若いとき、美術の道に入ろうかどうか逡巡していた頃、彼のデッサンの講師が彼に言った。

ちょっとここへ一本線を引いてみな。

引かれた線を見た講師はためらわず、彼をパリにある美術専門学校で修行することをすすめた。

そして、画家になるための学校で頭角を現すことになるのだが、どうも経済的に非常に不安定な時期があったようだ。

そして、あなたの腕があるのだから、人々が喜びそうな絵をたくさんそ描けば、食いつなぐことも出来たでしょう?と尋ねられて、彼は答えた。「ええ」と。

だが、実際にはそのような人々の好みに合わせるような絵を彼は一枚も描かなかったらしい。


しなかった、しかしやろうと思えば出来た。これが普通、人が思うところだ。
だが、彼は「ええ」と答えた後、しばらく黙って、「いや、それは出来ていなかっただろう」と答えた。

この箇所だけはよく覚えている。もう何年も前の話だがラジオで彼のインタビューを聞いていたときに、私は思わず両膝を手でたたいた。なんて正直な人だろう、と私は思った。

「ちょっと線を引いて」と言われてやった線引きと、「簡単だから出来たでしょうー?」の絵の売買。
ともに簡単にみえる行為だが、何かが決定的に違うのだろう。

この違いは絵画に限らず、あらゆる分野に当てはまるような気がする。
たとえば文筆活動でも、大勢の人が期待するような文章をあらかじめ予想しながら書いていくことは出来る。
でも、人の期待を先取りする形では、自己のなかにある未知との遭遇は期待できない。

自己の中にある未知を他者と共有可能なレベルにまで持って行くことが出来るかどうかが、芸術かどうかの境目になるのかもしれない。
もしかすると、Pierre Soulages のように共有の可能態を追い求める人たちは、簡単に見えることは出来るだけ忌避しつつ、一種の時間差攻撃を仕掛ける作品を生み出そうと努力しているのかもしれない。もしかすると、人から見て難しいことが、彼らにはもっとも楽なことだったりするのかも。

もっとも、あらゆる芸術作品には、この「時間差攻撃」が内在しているのかもしれないので、ここで私が書いていることは、実は陳腐なことかもしれない、、、



# by yoshiboite | 2011-04-01 17:56 | Trackback | Comments(0)

知性がどこにあるのかわからない、、、わからない。  

2011年 03月 23日

福島第一原発の事故は、順調に収束に向かっているのか?
NHKのニュースの解説者たち、そして彼らに呼ばれている多くの学者たちの反応に、知性のかけらの一片でも見られれば話は別だが、実際はそうではない。
だから、人々の不信感がかえってこれからじわじわと広がるような気が、個人的にはする。
たとえば、このマイクロシーベルト(μsv)という値。毎時で測った放射線量らしいが、三日ほど前、福島市では約12μSV/h、日光では約1μSV/h、東京都では0.05μSV/hだった.
だいたい自然値では0.34から0.7、多くて0.1ということだから、東京周辺はあまり心配することはなさそうだとは思った。

しかしよく考えると、福島市の値は尋常ではない。
仮に12/hがこれから2週間程度続くと仮定してみよう。

12/hだから一日分(×24)で288になる。一回に我々が受ける胸部X線のレントゲンが50だから、私の計算の方法に誤りがなければ、一日に5.76回のレントゲン検査を、福島市の人たちは2週間にわたり受けることになる。

同様の計算を日光に当てはめて実行すると、二日に一回のペースで、日光市民の人々はレントゲン検査を受けることになる。もっとも、屋外と屋内とでは、浴びる放射線の量が違うらしい。

しかし私だったら、たとえ屋内でも福島には居たくない。一刻も早く避難したい。そもそもX線自体が壁とか服とかのものを通すはずだ。X線は壁を徹るのに、放射線は壁を通らないのか?
わからない、わからない。そもそも壁を通らないのは放射性物質のことではないのか?花粉と同じで。

前回このブログで、京都大学の小出氏のインタビューをリンクしておいた。
知性の働きが順調な人のしゃべり方には特徴がある。
そのように思われませんか?
思われなかったら、もう一度彼とジャーナリストの青木氏との会話を聞いてみてください。

翻って、NHK(たとえば夜9時からの)にでてくる学者には紋切り型というか、状況報告的というか、トーンがぴんぴん跳ねていないと言ったらいいのか、、、どういったらいいか分からないが、どこか骨の髄まで権力の語りを体現してしまっているところがある。だから彼らがいくら、安心です、大丈夫ですといっても、こんな受け答えでは信用をおけない、と疑う人が大勢出てくると思うし、実際に出ている。

思考の自由を剥奪された学者たち。簡素に言えばそういうことになる。
知識は膨大なはずの学者でも、それを有機的につなぐことが出来ていないと、こうなるのかもしれない。

前に村上春樹のラジオドラマをここで紹介したとき、BBCとFrance Cultureの2局をありがたがって聞いている人は大勢いるんだろうなーと書いた。

何のことはない、ルモンド紙が、今回の縁発事故の情報収集では、英語の出来る日本人はBBCかCNNから情報を得るようにしている、と書いていた。さもあらん。多くの日本人が海外メディアを頼りにしているのだろう。これは悲しき事態だと思う。

しかし、少なくとも言えることがある。なぜ、有機的な話し方をする学者をNHKが番組に呼べないのか?それはおそらくニュースの解説者たちに、コメンテーターも含めて、思考の自由がないからであろう。

日本社会全体で進行中の思考停止状態が、今回の原発事故を生んだ。そう私は思っている。
原発政策を強く進めたから今回の事故が起きたのではなく、社会の自由を何十年にもわたって殺してきたから、今回の事故が起こった。そうではないだろうか?

フランスのEuroニュースの配信では、400ミリSVという数字が出てきたときに、専門家の意見でそれは自然に存在する値の400万倍だから、作業員は死を覚悟しているに違いないと言っていた。

この400万という数字、少なくともNHKでは聞きもしないし、見もしなかった。大手主要メディアでも見ない。
なぜこの数字をがでてこないんだろう?
言う自由がないのかな?

# by yoshiboite | 2011-03-23 11:57 | Trackback | Comments(0)

日本メディアの御用学者たち、ちょっと見苦しい、、、  

2011年 03月 17日

京都大学原子炉実験所の小出裕章氏がビデオニュース・ドットコムでインタビューを受けえている。やはりNHKをはじめとする日本のマスメディアにでてくる学者のレベルでは、外国メディアを信用したほうがいい。御用学者が多すぎる。

ここのブログでは、有料コンテンツを流す媒体は極力避けてきたが、今回は無料放送だからここへコピペしておく。

# by yoshiboite | 2011-03-17 22:37 | Trackback | Comments(0)

Haruki Murakami radiodramas @France Culture  

2011年 03月 02日

ずいぶんと長い間ここを留守にしてしまった。
このブログを訪れてくれる人に、果たしてどれだけフランス語を解する人たちが居るのか知らない。
けれども、おもしろい情報はすぐ流すに限る。だから、ここへ貼り付けておこう。

村上春樹氏の「カフカ」がフランス語でラジオドラマ化されて流されている。
なかなかいい演出です。意味がわからなくとも、聴き入ってしまうのでは?

多くの人たちにとってBBCもFrance Cultureもとてもありがたい存在になってるんだろうな。

本を読んで、情景を目の前の壁に鮮明に投射するのが不得手のわたしには、耳から入るラジオドラマは刺激的でいい。こんなものがただで簡単に手に入る時代は、やはりいい。

がんばってください。みなさんも。

# by yoshiboite | 2011-03-02 01:53 | Comments(0)

生きる旨味  

2010年 06月 22日

なんだか急に旅がしたくなった。

今年の夏は2週間ウインドサーフィンをしよう。
計画倒れにならないように、心の準備が大事だ。
このままでは腕が落ちかねないから。

マリンスポーツで風を切る味をしめたものは、
なかなかこの味が忘れられない。

# by yoshiboite | 2010-06-22 18:41 | 徒歩散歩 | Comments(142)

サッカー・フランス代表の反乱  

2010年 06月 21日

ニコラ・アネルカがフランス代表から除名され、それに抗議する形でサッカー・フランス代表の選手たちが練習をボイコットした。
フランスは今この話題で持ちきりである。

政治家やジャーナリストを含むコラムニストたちが「全くもってけしからん」の声を上げ、果ては大統領までもが許しがたいと言っている。

でも、わたしは思った。ああ、仲間思いのいい連中じゃあないか、と。(ちょっとうらやましいね)

フランス代表の選手のストレスマネージメントは以前から問題があった、ということは知っている。エマニュエル・プティが1998年の時点ですでに、自分の代表チームにおける居心地の悪さの苦しみを吐露している。

その居心地の悪さの問題に何の手もつけてこなかったのがフランスサッカー連盟の実態なのである。
だから、この問題は掘り下げれば掘り下げるほど、実はフランスの政治家たちの、己の無能ぶりを、サッカー連盟の無能というフィルターを通して、白日の下に晒すことになる。

政治の問題がスポーツの問題を通じて現れるとは、サルコジも想像だにしなかったであろう。

火曜日のフランス・南アフリカの試合がどうなるのか楽しみだ。

アネルカ追放を機に、結束を取り戻した選手たちが、チームとしての威力を爆発させるかどうか。
そして、その爆発の矛先は、彼らに理解を示そうとしないフランスメディアやフランス国民であろう。

面白い。おそらくサッカー史上初めて、自国のメディアの圧力に対する怒りに燃えた選手たちが、自国民に向かって一矢報いる戦いになるであろうから。

革命(反乱)の伝統が、こんな場所で見られようとは。

# by yoshiboite | 2010-06-21 18:07 | Comments(0)

つなぐ思想  

2010年 06月 10日

先ほど、ビデオニュースのサイトで、菅直人首相の就任記者会見を聴いた。

ああ、久しぶりだな、こんな芯の強い考え方を持ち合わせている首相は。そう私は思った。

とにかく考え方が二項対立的、相互排除的でなくていい。

二項対立的な考え方は社会を少し観察すると、あちこちに散見される。

高速道路を無料にしたら鉄道の採算が会わなくなるとか、フェリー会社が潰れるとか。
あっちを立てればこっちが立たず。でも良識が多少でも備わっている人たちには、そんな考え方がメディアを通じ、社会で大手を振って歩いていることに、いい加減もう飽き飽きしているはずである。


いつだったか、「剣岳、点の記」という映画を見た。くだらない映画だった。つまらなさもここまで来ると話にならない。1800円も払って、ああ悔しい。浅野忠信が出ているので、観に行ってしまった。

この映画は、陸軍の測量部隊と日本で最初に結成された市民系の山岳会のどちらが先に、日本に残された最後の測量未遂行の未踏地帯である剣岳に登頂できるかという、いわばコンペティションの原理が基調になって構成されている。

結局、測量部隊が最初に登頂に成功するのであるが、ストーリー自体が見事に二項対立の考え方を体現していた。測量部隊が最初にモノにしたものは、あくまで測量部隊のものである。どちらが最初にある地点を制覇するか。これはまさに既成事実の積み上げを社会秩序の出発点に置く考え方で、俺のモノは俺のもの、お前のモノはお前のものであるという、ある任意の二項が相互排除的に並列されるシステムである。そんな相互排除的なリスペクトで本物の尊敬が表現できると思っているのだろうか、これを撮った監督は?これが最初に私の頭を掠めた疑問だった。

お互いに競争はしたけれど、最後には「仲直り」して、互いの努力をたたえあう。そんな図式で終わる映画だったが、人々の無意識に訴えていたのが、人間同士がお互いの努力をたたえあう美しさを通して、二項対立の相互排除システムの堅牢さそのものなのだからたまらない。

なぜこんなくだらない脚本にこだわったのか、この映画を見終わって、もちろん考え込んだ。
ああ、そうか、これは社会全体の考え方がA方向に流れているから、同じ方向のA型に映画のストーリーを鋳造したのだ。あるいは監督の頭そのものがその考え方に共感しているのだ。それとなく社会にこびている映画だから、つまらないと感じたのだ。そう私は思った。

実際、陳腐なカターシスほどくだらないものはない。

話を菅直人首相の演説にもどす。
経済成長を達成するために、社会保障を犠牲にするという考え方が彼にはない。

高速道路無料化の議論のなかでよく聞かれたのが、鉄道を犠牲にするのか、フェリーを犠牲にするのか、という反発であり問題であった。今でもその反発は残っていると思う。

でも、もう二項対立的な考え方はあまりにも時代錯誤であると考える人たちが、政治の世界でも少しづつ現れてきたのだろう。菅首相はそういう人たちの代表格なのだな、そう思った。

鉄道と高速をつなぐ、あるいは高速とフェリーをつなぐ。
経済成長と社会保障をつなぐ。

モノとモノをつなぐ思想が、あるいはヒトとヒトをつなぐ思想が日本の政治世界にもむくむくと立ち上がってきたことを祝福したい。

# by yoshiboite | 2010-06-10 21:41 | 閑話 | Comments(1)

面白いもの見つけた  

2010年 06月 08日

いい物を見つけた。

ひとつは茂木健一郎氏のブログ、クオリア日記

もうひとつは、マトグロッソプロジェクト

どちらも、もう有名になりすぎて、わたしがここで紹介する必要などないのかもしれませんが、一応いい情報はコピペしておくに限るという基本方針からここへ掲載して置きましょう。

そういえば、こんな情報もありました。フランス日刊紙のル・モンドが紹介していたものですが、ルモンドはしばしば、自社サイトからU-tubeやいろいろな学者や評論家のブログへ直接誘導してくれるリンクをしばしばつけてくれます。横断的でいいですね。

日本のマスメディアにも、たまには内田樹とか宮台真司とかのブログへ直接誘導するようなリンクを貼り付ける位の太っ腹を持っていたらと思いますが、まあそこまで行くにはまだまだ時間が必要なのかもしれません。
でも、いまはまだWEB2.0だから情報の縦割り構造が保たれていますが、これからの情報のあり方(WEB3.0/WEB5.0)の時代はもっともっと横断的になるはずです。コンピュータ機能がパソコンからあらゆるものに移住するであろう世界だから。で、そんな世界を自宅の庭のように突き進む能力のある人間が新しい世界を作るんだろうな。べつにハッカーでなくても、情報の新しい流れを作ることは出来るみたいですね。いいことですね。

# by yoshiboite | 2010-06-08 02:15 | Comments(0)

その支持率、怪なり  

2010年 06月 02日

鳩山首相が辞職の意志を固めた。日本の短命政権が、小泉政治以後、ここのところ何代続いていることか。以前、ここで福田元首相が辞職したときに書いたことをもう一度書いてしまおう。

『その国の首相からも見離される国民』と。

日本は一応議会制民主主義という政治体制を採っている。つまり有権者は選挙のたびに、彼を代理する人物に票を再度入れるか入れないかという審判権(なんかの商品の券と勘違いされている場合もたまにある)を持つことによって、国民主権という大義が保たれる仕組みを指す。よくないと気付けば取り替えるだけのこと。戦後、長らく私たちはこの取り替える作業を怠ってきた。いろいろな理由からそうなってしまったということになっている。まあ、それはそれでよいのだが、一応過去のことだし。

でも、一国の首相が決まったのち、ここのところ立て続けに首相が辞職する現象を目の前にすると、ちょっとまずいんじゃないかと思う。

よくないと判れば取り替えるだけのこと。さっきそう書いた。
一応有権者のうちに国家の主権は究極的にあるのだから。
ルソーという大思想家を持ち出すまでもなく。

でもだからと言って、いつでもどこでもその主権を投票権で乱用できると思ってはいけないと思う。一度選ばれて、主権者の代表の地位を与えられたものは、選ばれた以上、その地位から革命的手段によって引き摺り下ろすことは出来ないというカント的な命題は今も真理だと思う。

支持率が落ちているからお前やめろ。
ハイ、判りました。辞めます。
よし、聞き分けのいい子だ。
(これが民主政治独特の退廃思考であろう)

ところで、こんな感じで、上記の審判権をリアルタイムで乱用しても構わないような錯覚を与えるものがある。
いわゆるメディアによる支持率調査である。
支持率が20パーセントを切ると危険水域だと聞く。
そろそろ退場時だ、と。

でもちょっと考えるとおかしい。
2000年代の「20パーセント以下」と1990年代の「20パーセント以下」とでは、その重みがかなり違うような気がする。

民主党に政権が移ったとき、内田樹氏は毎日新聞に次のような内容の記事を寄稿していたと記憶している。すなわち、政権が変わったからって、あまり期待しないほうがいい。自民党ではダメだから、民主当に変えたのは、テレビのチャンネルを変えるような感覚でなされた感が多い、と。

この番組では面白くない、視聴率が上がらないと広告収入も入ってこない。そのようにして、廃止された番組と同じように、鳩山氏も退場させられていく。政治家を人気度で測る態度というのは、支持率の目安が限りなく視聴率の目安に近づいたことに等しい。それがルソーの思想の乱用であるということをメディアはもう少しわきまえておいたほうがいいと私は思う。

ルソーを乱用するとどういうことが起こるか?誰も真剣に為政者を選ばなくなってしまうのである。だって、いやになったらその時点ですぐ取替え可能なんだから。

こいつを選んだら少なくとも4年間はその執政の成功にも失敗にも付き合わされる。
どっちを選ぶべきなんだー。
この苦悩が日本の有権者には著しく欠けている。

# by yoshiboite | 2010-06-02 12:38 | 時事 | Comments(0)

日本の北朝鮮化― アア、マタモダマサレテイタカ  

2010年 05月 29日

ああ、まずい!
いつの間にか、インターネットでニュースを見るようになってしまっている。

カチカチ。コチコチ。

あっちにカーソルをやってはカチ。こっちへカーソルを持ってきてはクリっと。ニュースメディアの渦中をさまよっている。

朝鮮半島が緊迫した雰囲気にあるからといってネットのテレビを見始めていたのである。情けないことだ。でも、そのときに面白いことがひとつ頭に浮かんだのでここにまた書き残しておこう。

北朝鮮のニュースの報道官。時々日本のニュースにも出てくるけれど、あれ、なんであんなに固まった抑揚をつけて発音しているのだろうか?おそらく、ああいう発音・発声を聞いて反応してしまう人間が北朝鮮では量産されているのではなかろうか?何らかの得意な発声法で相手を威嚇するのは、なにも固まった抑揚の発声だけに見られるものではないと思う。

北野武の映画はほとんどすべてがやくざ映画である。やくざ特有と私たちが思っているあの『なんでいこの野郎ー』という言葉の程よい硬さの欠けた、動物の怒りをあえて模したような発声法を、わたしたちは彼の映画を通して見ることが出来る。どうしてこういう発音・発声法を彼らは身につけてしまったのか?もし北野武の描くやくざの世界が彼の描くとおりのものであったと仮定して。やはりそういう発声法に反応する人間がいるからであろう。

彼の『アウトレイジ』、私はまだ見ていない。でも、暴力映画だと言うのだから、その手の発声法があちらこちらに垣間見れるのではないかしら。でも、あのような発声法が外国の、特に西欧の観客に『こわい』と思われるのだろうか?いつもそう思いながら、私は彼の映画を見てしまう。結論から言ってしまうと、私は疑問である。それは、私たちが北朝鮮の女性報道官の語り方をテレビで聞いても、なにあれ、発声リズムがガチガチに固まっちゃって、一人で意気高揚変してるだけじゃないの、と思うのと同様である。もちろん、実際に魚雷とか撃ってくるのだから、そっちは怖いに決まっている。

私たちは、なぜある一定の発声法に反応してしまうのだろうか?

北朝鮮の報道官の発声法ややくざ特有と思われている発声法だけではない。第二次大戦前後のラジオを聴くと、『時代の匂いがする』。時(代)に匂いがあれば、空間(地域)にも匂いがある。80年代のフランスのテレビを見ると、非常にはっきりとニュースキャスターが聞き取りやすいフランス語で話している。しかし、その時代の匂いは、ニュースで報じられている出来事が80年代に遡ることに由来しない。それは、その時代特有の発声法を私たちがそれとすぐに気付いてしまうところから来るのだ。

そこで我々は言う。げげ、こんなニュースの前によくも何十分も人々を釘付けに出来ていたもんだなあ、と。

いま、あなたはテレビの前に何十分も釘付けになってテレビを見ている。自然体に見えて実は、匂いがぷんぷんする発声法の前にひれ伏して。あなたといってもそれは私をも含めたあなただから運命共同体である。

そこで私からの提案なのだ。時に、自分の生きる時代の、空気の、空間の匂いをかぐ努力をしてみてもいいのではないかと。北朝鮮の人々が視野の狭い自国メディアの出すラジオ波長に脳がやられていると嗤うのはやさしい。彼らには確かに自国のテレビニュースの流す『匂い』をかぐ自由が許されていない。では、私たちにはそれが許されているのだろうか?

どうもダメなんじゃないかと言うのが私の印象。
その理由のひとつが、北野武の映画からやくざトーンが消えないことなのだ。
黒澤と同じく、彼も映画を作る時は、観客に外国の観客を想定していないと言う。日本人に訴えるものが同時に世界にも通用するはずだというが黒澤の論理だった。黒澤は日本人の中に棲む人類へ訴えかけていたからそうなった。北野武の場合も、自分の映画をおどけて暴力映画などと捉えずに、社会映画であると規定していれば、そのような解釈が出来るシーンが多々ある。しかしながら、やくざトーンが彼の映画から消えないと言うことは、そのトーンがまだ国内で通用していると彼が思っているからではなかろうか?なぜそのトーンが通用しているかといえば、他でもない。他のいろいろなトーンが、いろいろな場所で通用しているからである。いちばん手短なのは、よくコンビにのレジなんかで見かける、お客あしらいトーンである。

トーン。広い意味での発声法。その匂いを嗅ぐ。それがその発声法が生む魔境から抜け出る最初の一歩のような気がする。でも、それが私たちにはおそらく原理的に出来ない。原理的に出来るような世間を創り上げてこなかった。その兆候のひとつが、私見では、北野武の映画からやくざトーンがなくならないことなのだ。

だから『日本の北朝鮮化』(@養老猛司)なのである。

私にはかつてイタリアのローマ人の友人が2人いた。彼らの声があまりにも馬鹿でかいから、日本のやくざトーンは彼らには効かないだろう、と言うのではない。彼らにはそのトーンの意味が理解不可能だから怖がれないのである。

匂いをかぐとは理解不可能に『なる』ということである。理解できないフリを『する』のではなくて。

# by yoshiboite | 2010-05-29 10:51 | 時事 | Comments(1)

Keith Jarrett  

2010年 05月 17日

今、彼のアルバム、『サンベアコンサート』を聴いて、ただただ感動するばかり。
ジャズは奥が深いなあ。

# by yoshiboite | 2010-05-17 14:34 | 美味エステ | Comments(0)

< 前のページ 次のページ >