養老孟子氏の最新の著作「大言論II」を、とても興味深く読んでいる。
今ちょうど本の半ば、『お金や情報は「現実」か』という章にさしかかっている。
そこでは、前章から引き続き、「違う」と「同じ」というテーマ、つまり差異と同一性の問題が別の観点から論じられている。現実というテーマが何故、後者の問題に引き継がれるのか、それをちょっとここへ記しておく。彼の現実の定義がまず面白い。現実とは人間の行動をうながすもの、これが彼の定義。自分が死ぬという知識は人の行動を変える。だからこの知識はもはや知識ではなく現実である。しかし社会を一望すると、同じ私が違う私になるという現実、つまり究極的には自己の死を含む、現在進行形の課程は、人々を動かさない。少なくとも動かしているようには見えない。要するに死は「あるようでない」。こう養老氏は述べる。まさに今現在、進行中の福島原発の危機が、何故か日本人を1ミリたりとも動かしていないようにみえるのと呼応するではないか。まあそれはそれとしても、「同じ」が「違う」に変化する「現実」(いまならまだ「原発」と置き換えてもいいかも)が、現代社会を生きる我々に決定的に欠如している点をまず喚起してから、差異と同一性の問題に彼は突入していく。
養老氏の大言論Ⅱを読まれていない人には申し訳ないけれど、ちょっとここに思ったことを書き残しておこう。
さてその差異と同一性の問題である。
「同じ」を西洋系の言葉の代表である英語で言えばsameとidenticalがある。「この2語はどこがどうちがうのか」と彼はまず問う。さらにこの2語は日本語の「同じ」とどう違うのかと問い続ける。
養老氏の仮説はここでもとても興味深い。有名なデカルトの「我思う、故に我あり(コギトエルゴスム)」の「コギト」の部分に「同じ我」が暗黙のうちに前提されている、というのだ。
「『我が思う』(コギト)のはそれでいいのだが、かくいう私にしてみれば、『明日の我』が思ったときに、それが『昨日と同じ我』だというのが問題なのである。どうしてそこで同じという話題が出ないんだろうか」(p.151)
「同じという話題が出ない、、、」。
つまり昨日のコギトと今日のコギトは違うはずなのだが、ならばどうしてそこで「同じ」という話題を自分にも気づかないようにあえて隠すのかと彼は問う。個体のろうと液体のろうは同じか違うかを問い尽くしたデカルトなのだから、養老氏の疑問ももっともだ。
もっともデカルトにしてみれば、隠しているつもりは毛頭ないのであろう。それならそれは言葉の無意識のレベルに沈着している言語的偏向なのではないか?そう養老氏は仮定する。
つまり「西欧語を成り立たせている前提に、『同じ』と『違う』という主題を日本語で考える場合とは、違った偏りがあるんじゃないか」(p.151)と彼は仮説を立てるわけである。しつこく説明的に言うと西洋語一般には、ちょうどデカルトが知らず知らずそうしたように、「同じ」という働きが言葉のレベルですでに暗黙に前提されているのではないか、と養老氏は問うのである。
他方、それなら日本語に暗黙のうちに前提されているのは何だろう。それは「違い」ではなかろうか、と彼は続ける。
何故かというと、たとえば双子を英語ではidentical twinsと呼ぶ。この双子の立っている場所が「違う」にもかかわらず、あらゆる点でその双子が持っている特徴は「同じ」だからということでidenticalと形容する。つまり「同じ」が英語においては前面に出てきてしまっている。
日本人である彼はだからこう問いかける。「いる場所が違うじゃないか」と。そして彼は気づく。「日本語で同じというとき、対象の時間的同一性を指す方がしっくりくる。いくら〔その双子が〕似ていても、二つの〔空間的に異なった位置に存在する〕ものは同じではないからである。」(p.152)
対象の時間軸における同一性に対して親和性を持つ(しっくりくる)のが日本語であればこそ、その空間軸における同一性に違和感を持つのが日本語なのであろう。こう彼は主張しているようにみえる。
だから、たとえば日本語で同一双生児と表現したら、「昨日のあの双子の組という意味になってしまう」。西洋語ではこの対象の時間的同一性が言及されていない。つまり隠されている。デカルトでさえ気づかなかった。よって西洋語では、その同一性が暗黙の前提を構成している。
ところで意識とは同じという働きである。そしてこのはたらきが、西洋語の前提であるのなら、西洋語の基礎は「概念」であろう。ならば、他方、日本語の基礎は「感覚」なのではないか。このような推論で養老氏は「違い」にこだわる日本語を「発見」する。
そしてこの推論の土台をさらに強化するように、彼はドイツ語のドッペルゲンガーという概念を持ち出してくる。この概念は同じ自分が二人ある、あるいはいることを指す。ジキルとハイドしかり。カフカの変身しかり。スティーブン・キングの小説に出てくる「自分がふたりいる」というテーマしかり。
養老氏によれば、日本語でこの概念が適用された例はあまりないらしい。ないと明言しているわけではないが、日本語には暗黙に、「同じ二つが〔空間的に〕あるわけないだろうがという常識」(p.153)が優先しているらしい。優先していると彼が言っているのではないが、そう読める。
空間軸における対象の「違い」にめざとく気づく日本語と、その「違い」を「同一」として扱ってもあまり気にとめない西洋語。
これが彼の仮説の概要で、だから「違い」、つまり感覚的思考を基礎に持つ日本語と、「同じ」、つまり概念的思考をもつ西洋語の対比が成り立つ。わかりにくい説明になったかもしれない。頭がこんがらがってしまったら、もうしわけない。
さて、以上が彼の仮説の「表」なら、その「裏」も述べる必要はないか。そう私は思うのである。だから今こうしてメモっている。
即ち、もし日本語が空間軸における対象の違いにうるさいのであれば、時間軸における対象の「違い」にはあまいのではなかろうか、ということなのである。かつまた、西洋語においては時間軸における対象の違いにはけっこう敏感で、日本語では時間軸における対象の「違い」を「同じ」として扱ってもあまり気にならない。あるいは扱う傾向がある。ということにならないか。だから、養老氏も指摘するように、日本語で「同じ」と言うとき、それは対象の時間的同一性を指すほうが「しっくりくる」。
そうであれば、この日本語の時間軸における対象の同一性に対する無抵抗は、概念的思考が、「違い」にこだわると養老氏が感じている日本語においてさえも、感覚的思考を凌いでいる印にならないか。そんなことはむろん養老氏は痛いほど分かっている。何しろ脳化した日本社会を彼ほどこてんぱんに批判できる人も少ない。
ただ、ヨーロッパの「同じ」では、ジキルとハイドは厳密にはそうとは言えないが、少なくともドッペルゲンガーという概念は「空間的に同居する同じ私」を指し、日本の「同じ」では、昨日の私は今日の私で「時間的に同じ私」を指す。どちらにも同じ「同じ」が負荷としてかかっている。ヨーロッパでは空間的に、そして日本では時間的に負荷がかかっている。変な言い方だが。
だとすると、同じ「同じ」にしても、むしろ時間を通じて同じである私、あるいは同じである対象の方がタチが悪くないか?これが私の最初の疑問なのである。
実は彼が、「西欧語を成り立たせている前提に、『同じ』と『違う』という主題を日本語で考える場合とは、違った偏りがあるんじゃないか」と言った時、私は次のように思った。その「違う偏り」は自転車を右傾させて走る場合と左傾させて走る場合に生じる「違い」であって、実は「同じ」ライン上を走っているのではないか、と。どうしてそう思ったか、それを以下に述べてみることにする。ただ傾きの向きの「違い」よりも、「同じ」ラインを走っている、と私がここで強調してしまっているように、私の考えはすでに中立的でないのかもしれない。
ヒトは時間と空間の中を自由に動きながら、自己確認をする生き物だとここで仮定してみよう。たとえその自由が単なる幻想であっても。何が言いたいか。ヒトは常に「同じ」場所ゼロを歩いているにもかかわらず、「違う」場所にいる、と信じている生き物なのだと仮定したいのである。
自分でも変な仮定だと思う。空間を自由に動くことが幻想であるわけないだろうが。実際にA点からB点へ移動できているではないか。そうなのだ。だが、自分のいる場所がA点であろうとB点であろうと、そこに自分がいる限り、それは自分の根本的な居場所ゼロから逃れられていることにはならない。そんなことを言いたいのである。
時間の中における自由の幻想は、話がもっと単純である。楽し過去を思い出し、来るべき未来をわくわく待つことに、多くの人は没頭する。でもそれも今という時間のゼロ地点にいながらそうしている。ヒトは絶えず進行する現在から逃れることが出来ない。
同じであって違うことに、おそらく時空という概念ほど当てはまるものはない。たとえば紙の上に一筋の線を引けば、時間は空間化、つまり物質(モノ)化する。物質によってたとえば音を出し続ければ、空間は時間化する、つまり意識の流れ(ヒト)が生じる。モノとヒトはことほど左様に、差異と同一性というテーマに絡み取られているように思える。「同じ」という意識の働きが強くなると、ヒトは自分のモノ性(ある意味で受傷性)を忘れるということか。ちょっと難しくなってきた。差異と同一性を哲学的に述べると中途半端になる。やめて、もっと一般的な話を出そう。
Daniel Pennacというフランスの小説家が書いたLe dictateur et le hamac (独裁者とハンモック)という面白い本がある。実はまだ読み終えていないこの本のメインテーマが、なんとぴったり差異と同一性のテーマなのだ。どれくらいぴったりかというと、本を読んでいただくしかないが、この小説の中に面白い箇所がある。ヨーロッパ言語の窓を表す言葉の語義は、la fenêtre, la janela, das fenster, the window, la finestraのどれをとっても「同じ」だが、これらの窓は開けたとたん、聞こえてくる音は「違う」し、その窓を閉めたときに味わうことのできる生活のリズムも「違う」。そんなことをいっている箇所があった(原典p.65)。まったく、そうだよなー、なんて思ったが 世の中のすべての「モノ」にこれは当てはまるのかもしれない。
何の話をしていたか。そうそう、同じであって違うヒトは自己確認するために自由という幻想を迂回する。その時にとる方法が時間的か空間的か、ということだった。ここで変な例を持ちだそう。プラトンの有名な洞窟の寓話では、人々が洞窟の壁を向いて、横並びになって鎖でつながれている。プラトンの場合は洞窟の中心に置かれている薪の火に誰かが最初に気づくのだが、もしこの火がなかったらどうだろう。横並びに繋がれた人々のなかに自分もいるとき、そこで自己確認をする方法は二つある。前に一歩出るか、後ろへ一歩引くかである。前に一歩出れば、時間の上で他人を制する(時間的超過)。後ろへ一歩引けば、それだけ空間が、あるいは奥行きが広がる(空間的超過)。
にもかかわらず、我々は時間軸ゼロ、空間軸ゼロの位置に居続ける。
時間的超過で自己確認するクセがあるということは、時間軸の上をゼロ点に居続けながらも-1から+1へ移動する実感を求めた上でそうなるということだろう。この移動によっておそらく出発点と到着点の差は現れては消えという運動を繰り返す。時間軸上の差が消えるから、空間軸上の差はかえって目に付く。だから空間的に同じ二つはない、と日本語の前提の場合、なるのではないか?
逆に、西洋語の前提の場合、空間的超過で自己確認をするクセがあって、空間地点-1と+1の差が目に付かなくなるが故に、時間軸における差異に敏感になる。それならば、ヨーロッパ言語が全般的に空間的差異に、双子の違いに鈍感になることの説明が付く。
結局、何を言いたいのか。つまりこういうことだ。
養老氏は、昨日の机と今日の机は違うといっているが(p.152, 155)、実はその時間軸上の違いにめざとく気づくのは、彼がすでにヨーロッパの感性を自分のモノとして身につけているからではないか、ということなのである。養老氏ほど西洋の書物と格闘してきた人間も珍しい。だからこれは決してあり得ないことではない。と私は思っている。
最後に、日本にあってヨーロッパにないものを挙げれば、きりがないが、年賀状というおもしろい習慣が日本にはある。これは、養老氏の文句をもじっていえば、時間軸上に「同じ二つがあるわけないだろうが、という常識」が日本にないおかげでできる営為かもしれないのである。
実際、年賀状を毎年お正月に、友人知人に出すときに、日本のヒトは、以前の自分を前面に出すのだろうか、それとも今までとは違う自分を出すのだろうか。
そのどちらでもなかったりして。ということも十分ある。
長くなったが、要するに日本では時間軸上を移動する際、ヒトであれモノであれ同じであろうとする傾向が強いのではないか。そう思ったのである。いいことも悪いこともそれで引き起こされるだろう。その悪いところを取って、「タチが悪い」と上に述べたのである。
西洋語の前提に「同じ」がある、つまり概念がある、そして究極的には神がある、というのはその通りだと思う。だが、そのための解毒剤として、彼らは空間に奥行きを持たせてきたのかもしれない。
日本語の前提になっているという「違い」にももしかすると、時間上の奥行きという解毒剤が存在するのかもしれないが、それが何なのか分からない。
時間芸術の大風呂敷をひろげる器かもしれないな。